ヨルダンのアンマンのホテルで自爆テロがあった。
地震で大変なカシミールで、日本人が銃撃戦に巻き込まれた。




おれが過去に訪れた場所で最近、ヤバイことがたくさん起きている。




こういうことがあると、周りの人間から「おまえ変なのに巻き込まれなくて良かったな」とか「ああいうことが起こるようなところに、そもそも行くな」とか、言われるわけだ。



「なんでそんな危ないところに行くの?」



そんな素朴な疑問を受けることがよくある。
こうだから、というハッキリとした理由があるわけじゃないし、そもそも確固とした目的がある旅じゃないから答えに困るのだが、これだけは言えるということが1つ。




ヨルダンにしろカシミールにしろ、日本の政治・経済そして国益にはほとんど直結しない地域だ。
大抵の日本人が中東・印パなどの地域について連想するのは、ニュースでの爆発テロや武装勢力と治安部隊との小競り合いなんかの報道映像だろう。



崩れた建築物と炎上する車、逃げ惑う民衆、頭から血を流して嘆く男、泣き叫ぶ女。



そんな感じだろう。



日本にいるおれらの頭の中のヨルダンやカシミールでは、常にテロや銃撃戦が起きているわけで。
しかしそれは当然、マスコミによって脳内によって築き上げられたイメージに過ぎない。
おれはそんなイメージが形成される途中でスポットライトが当たることなく、その過程から除外されてきた「現実」が見たいのだ。



具体的に言えばそれは、現地の人々との対話の節々に表れる表情であったり、歩き疲れて立ち止まったときに見上げた空の蒼さであったり、市場を歩いた時に様々な売り場から臭ってくる怪しげな香りであったり。



言ってしまえば「空気感」である。



その国を語るときに、ふと脳裏に甦るその感覚こそが最も大事なんだとおれは思う。
それを得るためには勿論、現地に行って自分の足で歩いて自分の目で見て自分の肌で感じる必要がある。
しかし、それを実際にやるかやらないかでは、次元の違う話だと思う。



部屋で寝転がってテレビのニュースを眺めているだけで得られる情報とは雲泥の差なのだ。



五感で感じる「質感」という概念こそが、人間としての経験に最も大きく影響する要因だろうから。



だからこそおれは旅に出るのかもしれない。



そこに隠された現実に、自分の肌で「触れる」ために。